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東京地方裁判所 昭和31年(ワ)6379号 判決 1957年4月20日

原告 佐久間利一

被告 田部顕穂

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し金二十六万五千七百八十八円を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」旨の判決を求め、請求の原因として、次の通り述べた。

「被告は、東京法務局所属の公証人であり、肩書地に役場を開設している。

原告は、昭和三十年八月三日、豊島区池袋二丁目千百三十四番地所在木造トタン葺二階建住宅兼店舗一棟建坪十坪五合二階四坪(所有者台東区竹町二十番地長島徳太郎)の建物(以下本件建物と略称する)において喫茶店を営んでいた訴外川島重夫から喫茶店経営に関する権利一切を譲り受けることとし、その権利金百十万円は、同人のあつせんによつて建物所有者長島と原告との間に本件建物の賃貸借契約が成立し、その公正証書が作成されるならば、原告より川島に交付することを約束した。そして、原告は、同年八月十日、被告役場において、当日不出頭の長島の印鑑証明書と委任状とを持参した川島を長島の代理人として、被告に対し、賃料月一万五千円、期間一年とする本件建物の賃貸借に関する公正証書の作成を嘱託し、これに基き昭和三十年第千七百八十一号公正証書が作成された。そこで原告は、前記約定に従い、川島に対して権利金百十万円を交付し、また、爾来毎月一万五千円の賃料を長島の代理人と称する川島に交付してきたものである。

然るに、その後、川島が被告に提出した前記委任状並びに印鑑証明書は同人において偽造、変造したものであつて、本件建物の賃貸借については、長島の全く関知しないものであつたことが判明し、原告は川島から前記権利金を詐取されたほか、ついに長島に対し本件建物の明渡を余儀なくさせられるに至つた。この結果は、被告が川島提出の右のような偽造、変造にかかる委任状、印鑑証明書を十分調査せずして無効な公正証書を作成したことに基いている。一般に、公証人たるものは、証書作成に際しては、嘱託人の氏名を知らず、また面識もない場合においては、官公署の作成した印鑑証明書を提出せしめ、これを調査して人違いでないことを証明させなければならず、なお、代理人によつて嘱託された場合には、其の権限を証すべき証書の提出を求めて権限の調査をなす義務を負うものである。本件において、川島の提出した印鑑証明書は、一見してインキ消しで消し取つた後変造しているものである事が判り、況んや多年公証人の職務に携わつている者にとつては直ちにその変造を察知できる程度のものである。従つて、被告が右委任状並びに印鑑証明書の真正について調査を怠り、或は調査をしたとするも其の偽造、変造を見逃したことは、まさに重大な過失を犯したものといわなければならない。

原告は、かくして作成された公正証書を有効なものと誤信したため、本件建物において喫茶店を経営することによつて、少くとも公正証書記載の一年の賃借期間中、毎月二万二千百四十九円と推定される純益を挙げうるはずであつたにもかかわらず、本件建物の明渡を要求され、喫茶店経営を不能ならしめられたのであつて、結局一年間の合計二十六万五千七百八十八円に及ぶ利益を喪失したこととなる。よつて、本訴を以て被告の不法行為に基因する右金額に相当する損害の賠償請求をなすものである。」

以上の通り陳述し、証拠として、甲第一乃至第七号証、第八号証の一乃至三を提出した。

被告訴訟代理人は、主文と同旨の判決を求め、答弁として、次の通り述べた。

「被告が公証人として肩書地に事務所を開設しており、昭和三十年八月十日、原告と長島の代理人としての川島との両名の嘱託を受け、川島に対し長島名義の委任状並びにその印鑑証明書を提出させた上、原告主張の如き建物賃貸借契約公正証書を作成したことは認めるが、右委任状、印鑑証明書が川島の偽造、変造にかかるものであること、並びに、原告と川島乃至長島との間の原告主張の如き本件建物賃貸借或は喫茶店経営に関する交渉の始終についてはすべて知らない。

そして、被告が本件公正証書を作成したのは、原告において同行した川島より、その権限を証すべきものとして提出された長島の委任状と、その印鑑証明書とについて、両者の印が全く同一であることを確認した上、川島が長島を正当に代理し得るものと認めたからであるが、仮りに、右書類が盗用されたものであつた場合、被告においてこの点を審査することは不能なのであるし、また、印鑑証明書が変造されていたとしても、職務上必要な注意を以てしてもなお看破できなかつたものであつて、公正証の作成について、被告には何らの過失も存しない。

また、原告の主張に従えば、川島は長島の代理人たることを僣称した無権限者にすぎなかつたというのであるから、原告と長島との間には、もともと本件建物についての有効な賃貸借契約は成立していない。この契約の無効は、もとより公正証書の作成によつて何ら変化を来すはずはないから、原告の主張するような本件建物を使用収益することができなくなつたことが被告の行為に基くものということはできないし、まして、原告主張の如き損害は、原告に有効な建物使用の権限があることを前提として発生するものであつて、原告が右のように何らの権利をも取得していない本件では、その発生の基礎を全く欠くものというべきである。いずれにせよ、原告の請求を失当としなければならない。」

以上の通り陳述し、甲第四号証、第八号証の一乃至三の成立を認め、その余の甲号各証の成立については不知を以て答えた。

理由

被告が、東京法務局所属の公証人であり、昭和三十年八月十日、肩書地役場において、原告本人と、長島の代理人と称する川島との嘱託に基き、原告、長島間の建物賃貸借契約に関する昭和三十年第千七百八十一号公正証書を作成したことは、当事者間に争ない。

然るに、原告の本訴請求は、被告が川島の変造にかかる印鑑証明書等に基いて本件公正証書を作成したことを以つて違法有責の行為だとして、これにより生じた損害の賠償を被告に対して求める、というのであるところ、公証人は公証人法第一条所掲の職務権限たる公正証書の作成、その他の、所謂「公証作用」を担当することによつて、国の機関としてその公権力を行使する公務員に該当するものというべきであるから、仮りに原告主張の如き被告の不法行為が肯認され得るとしても、かような公務員たる被告の明らかに職務行為自体と目せられる行為に基因する損害賠償責任については、国家賠償法第一条第一項により国においてこれを負担すべく、公務員たる被告個人に負担せしめらるべきものではないと解せられる(最高裁判所昭和三十年四月十九日第三小法廷判決、判例集九巻五号五百三十四頁参照)。

従つて、原告の本訴請求はすでにこの点において理由を欠くので、爾余の点について判断を加える迄もなく、その請求を棄却することとし、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八十九条を適用して、主文の通り判決する。

(裁判官 真田禎一 西塚静子 萩原太郎)

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